「箴言21」を今日は読んでみた。

「どんな場合でも慌てない人となるには平素の言動を出来るだけ落ちついて行う様心がけるべきである」人生に生ずる錯覚や過失というものは、その原因が心が慌てたときに多いからである。

慌てるというのは心がその刹那(せつな)放心状態に陥って行動と精神とが全然一致しない状態を言うのである。

言いかえると心があっても、なきに等しい状態になるのである。

例えば手に持っているものを忘れて、その物品を紛失したと早合点して大騒ぎして捜すという、ふつうなら考えられない珍芸をみなさん、したことはありませんか?

これは精神が一時的に、もうろう状態になって思慮も分別もなくなっていたからである。平素の心がけが大切である。

その昔、聖徳太子が手紙を書きつつ他人とも談話をし、また数学の計算をするという驚異的な人であったことを皆さん聞いたことがあるでしょう。これは精神のコンセントレーション(統一)さえ確実にできれば誰にでも出来ることです。

どんな時でも平素の言動を出来るだけ落ちついて行うように心がけて下さい。

 

 

 

「たけのこ」のおいしい季節になりました。春の味覚の一つです。

「筍」は食用のもの「竹の子」は食用の時期を過ぎたものを言います。

筍の漢字は「竹」と「旬」が組み合わさって出来ました。「旬」は上旬、中旬、下旬といった1カ月を10日ずつに分けた時のそれぞれの期間を意味しています。

竹の成長は本当に早いですね。我が家の竹もすごい勢いで天を突きそうです。

さて「筍の親まさり」知っていますか。子供の成長が早く、その親を超えるほどに大きくなることのたとえです。

私たちも筍のようにぐんぐん成長したいものです。

 

心身の健康を守るためには十分な睡眠が大切です。愛犬、キー君も暇があれば眠っています。

人間以外の動物は簡単に眠れていますが、人間は簡単に眠れない動物なのです。何故でしょう?

睡眠学の学者によると、原始時代にぐっすり眠っていた祖先は動物に襲われて命を落としていた、と。そして、ちょっとした物音に反応して目が覚めるような敏感な人達が生き延びて現代の私達につながっているそうです。

規則正しく寝ようという考えが刺激になり、睡眠を妨げます。

しかし患者さんを診ていると、ものすごく個人差があり、睡眠薬がないと眠れない人と横になったらすぐに眠れる人が居るのは事実です。そして明日に大事なイベントがあると考えるだけで神経が高ぶって眠れない、という何とも繊細な生き物です。

結論は「あまり時間にこだわらない方が良い」との事です。

 

 

 

NHKの大河ドラマ「光る君へ」は、平安時代中期を舞台に「世界最古の女性文学」と呼ばれる「源氏物語」を生んだ紫式部の生涯を描いています。

さて皆さん、高校の時に習ったものと言えば、あと源氏物語と対比される「枕草子」があります。「春はあけぼの」で知られる枕草子は夏は「夜」、秋は「夕暮れ」、冬は「つとめて(早暁)」と一日の季節ごとの好ましい時を挙げています。

あけぼのとは、ほのぼのと夜が明けてくる頃のことです。寒さも緩み、日の出も徐々に早くなる頃の明け方は心が浮き立ちます。

春は新たな生命が息吹く季節であり、会社においては4月から新たな年度が始まります。

季節を愛でる際には心に空所(くうしょ)を持つことが大切と言われています。空所とは仕事とは無関係の別世界のことを言います。

春の花や新緑を眺めることも空所になるし、また映画鑑賞やウォーキングも空所になり、結果として仕事にも生活全般にも良い影響を及ぼします。

 

 

みなさん、「好奇心」はお持ちですか?

同僚の中で「何にでも頭をつっこみたがる人」って居ませんか?

日経新聞の春秋欄に取り上げていたのは、江戸幕府の中興の祖と呼ばれる8代将軍、吉宗である。

吉宗はとにかく好奇心旺盛でした。はるばるベトナムから象を取り寄せたのもそのひとつです。儒学のような教養よりも実証的な学問を好み、興味は遠い宇宙にまで及びました。江戸城内で自ら天体を観測しました。そして書物もキリスト教に関係しないなら何でも可という訳で漢文に翻訳した科学技術の書物の輸入も認めました。その成果で天文学の研究が盛んになり麻田剛立(あさだごうりゅう)が登場します。彼は望遠鏡で月面を観察し日本人で初めてクレーターをスケッチしました。月のクレーターであるアサダ(Asada)は、麻田剛立の名前に由来します。

皆さん、何にでも興味を持って行動してみて下さい。失敗を恐れずに。

(追伸)

まりかは、3月20日で7才になりました。

たくさんのプレゼント、よかったですね。

すくすく成長して下さい。

 

 

 

 

今回は高校の授業について書いてみたい。

その前に、愛光に入った時より毎日、2時限目と3時限目の間に「中間体操」と言って全校生徒が上半身裸になって校庭を何周もするのである。夏はともかく冬は本当にたまらなかった。今でも想い出すのは、2つ先輩の12期の向井玲二さんが赤尾の豆単(英語の単語集、赤尾好夫著、旺文社)を読みながら走っていたことである。まさに寸暇を惜しむ勉強である。(後に東大理Ⅲ(医学部)に現役で合格した。)。この中間体操も時代の流れでやがて廃止されたのは残念である。

さて私は、以前に語ったように医師か弁護士のうち医師を目指すように高2からなっていた。そして京大の医学部を目指すべくモチベーションをあげようと、京大の校歌を勉強の合い間に聴き、また本屋で買った京都市の地図を見ながら有名な地名の所へ将来行く夢を重ねてモチベーションを上げていた。

御存知の人は多いが、灘、ラサール等と同じく中高一貫の6年生の学校は高2で高3までの授業は終えていたので、高3になってからは入試本番の勉強に明け暮れた。英、数、物理は好きでよく勉強した。

高校からは愛光寮を出て、懐勉をしなくてすんだ。ところが道後の下宿の2階で勉強はしていたものの、ふすまの隣での大家夫婦のいびきの合唱が毎日続き、特に英語の単語が覚えられなくなった。しかたなく風呂場に降りて立ったまま勉強していたが蚊の大群に襲われ、とうとう成績が50番台に落ちてしまった。訳を聞いた母親は別の下宿を道後北代に捜してくれ、今回は静かで大いに勉強に打ち込めた。風呂は今はなき樋又通りの銭湯に通いつめた。そうして高3を迎えたのであった。(つづく)

 

 

今回は中学の授業について書いてみたい。

中2の時の国語の砂田先生の授業で、忘れられないのは壺井栄著の「二十四の瞳」の朗読であった。これが国語力のアップにつながるかは不明だったが、毎回、先生が朗読するのであった。その他、漢文、古文があった。正岡先生の漢文の授業で論語の授業は大変為になり、今でも職員の朝礼で使うこともある。「吾十有五にして学に志す」は今でもまさに15才で漢文を習ったんだなあと懐かしく思い出す。「七十にして心の欲する所に従へども矩(のり)を越えず」は果たして出来ているだろうか?また「吾、日に吾が身を三省す」はすばらしい言葉で、ここから書店「三省堂」が出来たことは有名である。

英語は一番最初に記憶に残ったのは谷後先生の「Station」であった。右手を突き出して「ステイ」、それから左手を突き出して「ション」。今でも右手、左手とやってしまう懐かしい「Station」。それにしても、英語なるものを最初に聞いた時の感想は、江戸時代に信長が異国人と会った時の感想に似ていると今でも想い出す。これが「英語」なるものかと。

中1の一番最初の英、数、国の実力テストが14番だったことで自信がついたのは今でもくっきり覚えている。

さて、言い忘れたが愛光学園は現在の宮西町、フジグランにあったのであり、朝美町の寮からの通学は10分ほどであった。そして途中、予讃線の踏切を渡るのである。ホームシックに当初かかっていた私はこの踏み切りで立ち止まって、汽車に飛び乗れば、今治に帰れるんだなと、「旅愁」を何度も口ずさんだ。「恋しやふるさと なつかし父母」♫♪。(つづく)

 

 

 

 

怒りは、自分の領域に侵入された「ひどい」という考えから生まれる。

そのようなときに、こころのエネルギーを高めて自分を守らなくてはならない。何もしないでいると、相手の思うがままに行動して自分の立場はますます悪くなる。だから無意識のうちにこころのエネルギーを高めて自分を守る行動をとります。

怒りは自分を守る大切な感情ですが、エネルギーが強いだけに相手を傷つけて関係が悪化する可能性が大です。

戦争をみていると両国が怒りの応酬になっていますね。

こうした時に役に立つのが、上手に怒りの波乗りをする技術です。深く呼吸をしたり手の握りこぶしに力を入れたりして気持ちを落ち着ける。その場を離れて飲み物を飲んでみる。そうすることで怒りのエネルギーを自分のために使って下さい。

 

 

 

 

本日、3月11日は当院の37回目の創立記念日である。

開院当日は大林組さんを始め、花輪をいただいて光栄なスタートでした。

よくまあ37年もやってきたなあというのが正直な実感です。

義父、後藤田先生(後藤田内科、昭和43年開業、)から引き継いだので55年にも及ぶ。

なんと55年も来院している方が居るのは嬉しいし、感謝の一言です。先日も55年間来てくれている女性と話しましたが、私に向かって「ずっとずっと頑張って欲しい」と激励されて、じーんと来ました。

この37年間に医療も大きく変わり、何と言っても開業当初、レセプトコンピュータを入れた時は「何と便利なものがあるんだろう」と驚いた記憶があります。

当初、虫垂炎の手術をした、やんちゃ学生が「30年ぶりに会社の転勤で松山に戻ってきました」と、あいさつに来てくれた時は本当に嬉しくなりました。また多くの製薬関係の方々にも色々と助けていただいて、この場を借りて感謝申し上げます。

今後共、宜しくお願い致します。

(追伸)

娘、ゆうり、まりかより 励ましの手紙をくれました。

 

 

 

 

 

さて中学校に無事に入った。「松山」は叔母が道後に居たので何度も来ていたから、全く知らない街ではなかった。

問題は下宿として入った「愛光寮」である。全室、2人部屋であった。規則は厳しく朝のラジオ体操が大の苦手であった。低血圧であった私は早起きは嫌でほぼ眠った状態で体を音楽に合わせてグルグル回していた。夜は5時夕食、5時半~7時と8時~10時までは勉強時間で寮監さんが厳しく部屋を回ってきた。中に、他の部屋で遊んでいる生徒を見つけては厳しく叱責していた。

今でも思い出すのは中3の時の夕食である。中1から高3まで全員が食堂で食べる食事は全て一緒であった。ある日の夕食が「素うどん」1杯であった。中3の私はそれで良いとしても高3生にはかなりきつかったのではないかと今でも思い出す。

そして何と言っても11時の消灯は完全に真っ暗になるため、9時過ぎたら歯みがき等をして就寝に備えるのである。

しかし問題は試験期間中である。とても11時には勉強が終わらず懐中電灯で勉強していた。そのため小学校の時に1.5~2.0あった視力も高1のときには眼鏡が必要になってしまった。これは今でも悲しい現実である。後に懐中電灯での勉強は「懐勉」と呼ばれるようになった。

さて、一番辛かったのは、入寮の時に母親が「がんばれよ。おなかが空いたら缶詰(桃)を食べるんよ」と言いながら去った後である。「小学校の間、ずっと毎日母ちゃんと一緒だったのに、どうして1人ぼっちになったんだろう?俺は毎日、どうやって生きていくんだろう」と、とてつもない寂しさを覚え、夜のベッドで1人涙した事は今でも忘れられない。現在のように携帯もなければ週刊誌もない昭和40年代。いくら定められた宿命とは言え、残酷な現実がそこにあった。あとは寮則に従って黙々と生きて行くだけのドライな4月であった。こうして寂しさを紛らわすために、ひたすら勉学に打ち込んだのであった。(つづく)

①愛光学園の生徒手帳。

②中1~中3までの身分証明書。

③朝美町(現、愛光町)から愛光への通学路。遠くに城山が見える。右が松山方面、左が今治方面となる線路。

④中3のときの愛光寮全員の写真。3列目の右から2番目。寮母さんの隣が私。