青春の想い出(6)
ここでいったん親父の話をしてみたい。
母親と結婚してからは今治のどまん中の港町(現在の共栄町)で豆菓子店を営んだ。中国から落花生を仕入れて煎って、それを母親とアルバイトの人が袋詰めにして売っていた。その他、色々な豆やチョコレート、キャラメル等も売っていた。私は小学校から帰ったら、よく店番を手伝っていた。陳列に100g20円とあれば「200gくれ」と言われたら、客の前で測って「40円です。ありがとうございました」と商売根性は身についた。中には、いじわる質問で「70円分くれ」と言う客も居た。算数が得意だった私は客の前で袋に入れながら350g計って、くるくると両耳をつくって「ありがとうございました」と渡した。客はびっくりして「お前は何年生だ?」と聞くので「4年生です」と答えると、「天才だな。お前は」と、おほめの言葉をいただいた。
さて親父は豆を煎ったあとは、午後から夏はアユ獲りの投網。冬は鉄砲をかついで何人かの友人と、アユ獲り、いのしし狩りに出かけていた。私も夏休み、冬休みは駆り出されてよくアユ獲りやいのしし狩りの経験を積んだ。親父は夜は投網を天井からつって、穴が空いた所を縫って修繕していた。そして夜は仲間を呼んで、夏はアユ、冬はいのしし鍋をして大勢が集まり、今から考えると人生を謳歌して、83才で亡くなった。私が大勢と酒を飲むのが好きなのも親父から受けついだ遺伝子だと思っている。
(つづく)
昼寝
「昼寝」は私も日よう日等は少々します。ただそれは「うたたね」にすぎません。
英語では「パワーナップ」と言います。
ナップは昼寝のことで昼食後に少しの時間だけ昼寝をすると心身がリフレッシュして午後のパワーがアップすることからこう呼ばれています。
何故、昼食後かと言うと私たちの眠気は12時間周期で変化して午前2時と午後2時に一番、眠気が強くなるからです。
だから昼食後に昼寝をすると午後の眠気防止になります。但し、長く眠るとダメで15~30分までにして下さい。
コーヒーが好きな人は昼寝の前に飲んでおくと30分くらいたって活動を始めるころにカフェインの覚醒効果が出てきます。
最後に、どうしても眠れなくても目を閉じているだけで多くの情報が遮断されて疲れは取れてきます。
青春の想い出(5)
前回(3月21日)に続いて高3の話である。私は自転車通学をして、その日も樋又通りを定刻に学校に向かっていた。すると突然、タイヤがパンクして運転不能になった。当日は世界史の試験の日であった。
頭がパニックになった。タクシーは通っていなかった。本当に焦った私は、道後から向かってきた自家用車に手を挙げた。運転手の男性が降りてきて「どうしましたか?」と。私は早口で「すみません。愛光学園に行く途中なんです。パンクしたので、すみませんが連れて行ってくれませんか?」と。
皆さんが運転手ならどう答えるでしょうか?幸いにも優しい方で「急いで乗りなさい」と言ってくれて私は無事に学校に到着した。道中、何を話したのか、お礼はどうしたのか、残念ながら全く記憶にない。50年経った今も、お礼をしたくてしようがない。もし、このブログを見て名乗り出てくれたら、しっかりとお礼をしたいと思っています。
「火事場の馬鹿力」なのか例えは分かりませんが強烈な想い出です。
さて、私の親父は大正生まれで、まさに戦争と向き合った世代です。今治の田舎、新谷(にや)生まれで百姓のせがれであった。時は「産めよ増やせよ」の時代で兄弟も10人以上。戦地に送るために男の子が生まれると、村長さんの音頭で村中の人が万才をしてくれたとよく話していました。そして当時、当たり前だった丁稚奉公(でっちぼうこう)で12才で単身上京。SEIKOの前身、精巧舎に就職しました。亀戸に工場があったようで、住居は東京の下町とだけ教えてくれました。そこで東京に友人が多く出来て、東京は親父の第2の故郷になりました。親父は(平成19年1月に死亡、83才)、よく私に東京の下町の話をしてくれ、やがて私の進路にも影響を及ぼしたのでした。
続きはまた次回で。
中村天風(その2)
「箴言21」を今日は読んでみた。
「どんな場合でも慌てない人となるには平素の言動を出来るだけ落ちついて行う様心がけるべきである」人生に生ずる錯覚や過失というものは、その原因が心が慌てたときに多いからである。
慌てるというのは心がその刹那(せつな)放心状態に陥って行動と精神とが全然一致しない状態を言うのである。
言いかえると心があっても、なきに等しい状態になるのである。
例えば手に持っているものを忘れて、その物品を紛失したと早合点して大騒ぎして捜すという、ふつうなら考えられない珍芸をみなさん、したことはありませんか?
これは精神が一時的に、もうろう状態になって思慮も分別もなくなっていたからである。平素の心がけが大切である。
その昔、聖徳太子が手紙を書きつつ他人とも談話をし、また数学の計算をするという驚異的な人であったことを皆さん聞いたことがあるでしょう。これは精神のコンセントレーション(統一)さえ確実にできれば誰にでも出来ることです。
どんな時でも平素の言動を出来るだけ落ちついて行うように心がけて下さい。
たけのこ
睡眠
心身の健康を守るためには十分な睡眠が大切です。愛犬、キー君も暇があれば眠っています。
人間以外の動物は簡単に眠れていますが、人間は簡単に眠れない動物なのです。何故でしょう?
睡眠学の学者によると、原始時代にぐっすり眠っていた祖先は動物に襲われて命を落としていた、と。そして、ちょっとした物音に反応して目が覚めるような敏感な人達が生き延びて現代の私達につながっているそうです。
規則正しく寝ようという考えが刺激になり、睡眠を妨げます。
しかし患者さんを診ていると、ものすごく個人差があり、睡眠薬がないと眠れない人と横になったらすぐに眠れる人が居るのは事実です。そして明日に大事なイベントがあると考えるだけで神経が高ぶって眠れない、という何とも繊細な生き物です。
結論は「あまり時間にこだわらない方が良い」との事です。
春はあけぼの
NHKの大河ドラマ「光る君へ」は、平安時代中期を舞台に「世界最古の女性文学」と呼ばれる「源氏物語」を生んだ紫式部の生涯を描いています。
さて皆さん、高校の時に習ったものと言えば、あと源氏物語と対比される「枕草子」があります。「春はあけぼの」で知られる枕草子は夏は「夜」、秋は「夕暮れ」、冬は「つとめて(早暁)」と一日の季節ごとの好ましい時を挙げています。
あけぼのとは、ほのぼのと夜が明けてくる頃のことです。寒さも緩み、日の出も徐々に早くなる頃の明け方は心が浮き立ちます。
春は新たな生命が息吹く季節であり、会社においては4月から新たな年度が始まります。
季節を愛でる際には心に空所(くうしょ)を持つことが大切と言われています。空所とは仕事とは無関係の別世界のことを言います。
春の花や新緑を眺めることも空所になるし、また映画鑑賞やウォーキングも空所になり、結果として仕事にも生活全般にも良い影響を及ぼします。
好奇心
みなさん、「好奇心」はお持ちですか?
同僚の中で「何にでも頭をつっこみたがる人」って居ませんか?
日経新聞の春秋欄に取り上げていたのは、江戸幕府の中興の祖と呼ばれる8代将軍、吉宗である。
吉宗はとにかく好奇心旺盛でした。はるばるベトナムから象を取り寄せたのもそのひとつです。儒学のような教養よりも実証的な学問を好み、興味は遠い宇宙にまで及びました。江戸城内で自ら天体を観測しました。そして書物もキリスト教に関係しないなら何でも可という訳で漢文に翻訳した科学技術の書物の輸入も認めました。その成果で天文学の研究が盛んになり麻田剛立(あさだごうりゅう)が登場します。彼は望遠鏡で月面を観察し日本人で初めてクレーターをスケッチしました。月のクレーターであるアサダ(Asada)は、麻田剛立の名前に由来します。
皆さん、何にでも興味を持って行動してみて下さい。失敗を恐れずに。
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(追伸)
まりかは、3月20日で7才になりました。
たくさんのプレゼント、よかったですね。
すくすく成長して下さい。
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青春の想い出(4)
今回は高校の授業について書いてみたい。
その前に、愛光に入った時より毎日、2時限目と3時限目の間に「中間体操」と言って全校生徒が上半身裸になって校庭を何周もするのである。夏はともかく冬は本当にたまらなかった。今でも想い出すのは、2つ先輩の12期の向井玲二さんが赤尾の豆単(英語の単語集、赤尾好夫著、旺文社)を読みながら走っていたことである。まさに寸暇を惜しむ勉強である。(後に東大理Ⅲ(医学部)に現役で合格した。)。この中間体操も時代の流れでやがて廃止されたのは残念である。
さて私は、以前に語ったように医師か弁護士のうち医師を目指すように高2からなっていた。そして京大の医学部を目指すべくモチベーションをあげようと、京大の校歌を勉強の合い間に聴き、また本屋で買った京都市の地図を見ながら有名な地名の所へ将来行く夢を重ねてモチベーションを上げていた。
御存知の人は多いが、灘、ラサール等と同じく中高一貫の6年生の学校は高2で高3までの授業は終えていたので、高3になってからは入試本番の勉強に明け暮れた。英、数、物理は好きでよく勉強した。
高校からは愛光寮を出て、懐勉をしなくてすんだ。ところが道後の下宿の2階で勉強はしていたものの、ふすまの隣での大家夫婦のいびきの合唱が毎日続き、特に英語の単語が覚えられなくなった。しかたなく風呂場に降りて立ったまま勉強していたが蚊の大群に襲われ、とうとう成績が50番台に落ちてしまった。訳を聞いた母親は別の下宿を道後北代に捜してくれ、今回は静かで大いに勉強に打ち込めた。風呂は今はなき樋又通りの銭湯に通いつめた。そうして高3を迎えたのであった。(つづく)