東医歯大の試験を終わった後、3月末に合格発表があるのだが、まず合格は不可能と考えていた。東京は王子の下宿で同じ浪人生活をしていた山鹿君は歯学部を目指していて、既に新潟大の歯学部(1期校)は合格していたが、本人は東医歯大の歯学部に入りたかったので私と一緒に試験は受けていた。その山鹿君が「越智君、合格発表は僕が東京に残って見に行くから愛媛の自宅電話番号だけ教えて」と言われて、私はさっさと帰郷していた。私は4月の駿台再入学を目指して毎日寝て暮らしていた。3月末のある日の朝、10時くらいに2階で寝ていた私を母親が大声で「やまがという人から電話だよ!」と起こした。正直「なんだろう?」とつぶやきながら電話に出ると、「越智君、合格していたよ。おめでとう」と。あっ、そうか。今日が発表日だったんだ。

その時点では私は何が何でも東大再受験を考えていたので医歯大は断ろうか?と考えた。母親も複雑な顔で「あんたの好きにしたらいい」と。困った私は駿台進路指導の野崎先生に電話した。すると野崎先生が「越智君、来年理Ⅲが絶対に通るという保証はないよ。医歯大も立派な大学なんだから医歯大に行きなさい!」と。私は喜びも半分ながら、従った。親父の働いている所に行って訳を話すと「そうか、良かったな」と一言つぶやいた。本当はすごく肩の荷が下りたはずであるが、あまり、しゃべらない親父であった。

そして、いよいよ4月から東医歯大での生活が始まった。教養部の2年間は千葉県市川市の国府台にあり、そこでさまざまな受験生活をして来た友人と出会うのである。

(つづく)

(追伸)

私事ですが6月2日に実母が亡くなりました。(享年98才)。

当院で私が見送れたのが幸せでした。兄と妹の計3人を精一杯、育ててくれて感謝です。

生前、お付き合いいただいた多くの方々に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

 

 

 

 

 

 

みなさん、「人が自分のことをどう思っているか?」と気にしていますか?

相手に好かれるように振舞っていませんか?

新渡戸稲造の「武士道」のマナーについての一節です。「体裁を気にして行うのならば礼儀とは浅ましい行為である。真の礼儀とは相手に対する思いやりの心、それが外にあらわれたもの。礼儀の最高の姿は愛と変わりません」と。

マナーは愛。自分を大切にするように人を大切にする心。自分がされて嫌なことをしない。自分がされて嬉しいことをする。

自分がした行為に相手が不愉快だといったら素直に謝ればよいのです。

マナーは自分が恥をかかないために学ぶのではなく、相手に恥をかかせないために身につけるものです。

マナーは相手を思いやるためにあるのです。

 

 

進路指導の野崎先生に呼ばれた。「越智君の成績なら理Ⅲは大丈夫だ。このまま頑張ればよい」。1月には成績優秀という表彰状までいただいて、すっかり自信をつけていた。

試験慣れのために、どこか私立大学を受けておくか?という話になって当時、一番、難しいとされた早大の理工学部を受けることになった。この話は誰にも話したことはなかったが、早大の構内に入ったのはこれが最初で最後である。英、数、理を受け帰りには代々木ゼミナールの人が解答を配ってくれた。マークシートだったので自己採点も早く、ほぼ満点であった。「特待生で早大に来てくれ」と封書が届いたが、私はとに角、理Ⅲを目指さねばならなかった。

さて昭和57年までは国立大は一期校と二期校があり(共通一次の前の時代)、今度は一浪の身であるので一期は東大、二期は東医歯大で願書を出した。

そしていよいよ東大受験の日。すいすいと進んで物理の問題。3問しかないんだな、と何度も確かめて回りを見渡す余裕があったが、あと10分くらいの所で「何かおかしい」と裏面を見ると裏にも問題があったのである。必死で解いたが、もう間に合わなかった。他の教科もがんばったが、発表の日は予想通り落ちていた。

絶望である。仕方がない。二期校の東医歯大の試験に臨んだ。倍率は50倍を越えていた。東大、京大、阪大等落ちた人がみんな来るので、すごい倍率になるのである。試験会場もないので代々木ゼミナールで受けた。1クラスは50人ぐらいの収容なので合格の自信は全くなかったが何とか終えて、その後、2浪のために駿台の受付を済ませて今治に帰った。親父が「あと1年、がんばって働かないかんな」とつぶやいた言葉を今でも忘れられない。

(つづく)

 

 

 

 

「3人寄れば文殊の知恵」にまつわるお話である。

神田東クリニックの高野先生の談話から拝借しました。

人が1人で出来ることは限られている。だから集団を作って、1+1が2以上になるような活動が行われている。学校、会社、病院全て集団である。

1人で考えても思いつかないのに集って相談すれば素晴らしい知恵が出ることは皆さんよく経験するでしょう。

あるテーマをめぐって自由に意見を出し合うことにより新しいアイデアを生み出す手法を「ブレンストーミング」と呼ぶ。他のアイデアがきっかけで自分自身にもまた新しいアイデアが浮かびます。

一方で「船頭多くして船山に上る」もあります。指示する人が多すぎてもダメです。

一人で考え続けて悩みの溝を掘り進めてはいけません。その時は話せる友人に相談して下さい。私も多くの友人、先輩を頼ります。

人は1人では生きていけない・・・。

 

 

合格発表を見るために母親と本郷に行った。

2人で番号を追った。しかし、私の番号はなかった。落ちたのだ!それからは母と何もしゃべった記憶がない。

新幹線で広島県三原市まで帰り、高速フェリーで今治港に夜遅く着いた。すると出口に母の姉が待っていてくれた。一言、「邦明。また来年がんばったらええんじゃ」。この言葉だけは今でも覚えている。帰宅して親父が何をしゃべったか等は全く記憶にない。しばらくして愛媛新聞の各大学の合格欄を見た。

東大の欄に当然、私の名前はなく、友人達がたくさん載っていた。それからは気持ちを切り替えて、お茶の水の駿台予備校に通うようになった。

不思議なもので東京の人、例えば開成高校等の人は浪人は当たり前の雰囲気で、ごっそり東大を受けて「落ちたら駿台に行って翌年、東大に行けばいい」という雰囲気で、ある意味、私は癒された。

私は前理A組に入り、その席の前列のK君は何と7浪であった。さて数学の3Nと言うあだ名がついた教師陣はすばらしかった。中田、根岸、野澤先生の頭文字である。愛光では教わったことのない「数学の解き方」を教わった。英語の鈴木長十、伊藤和夫先生、物理の坂間勇先生なども愛光の教え方とは全く違って学問の神様であった。

当然、教室は1杯になったが逆に人気のない先生はガラガラとなって、やがて居なくなった。(辞めさせられた?)。

そうして年末を迎え、進路指導の日が近づいて来た。

(つづく)

 

 

犬を飼っている人は多いです。

私も愛犬キー君を散歩につれて行きます。

さてAさんは友人が飼っているカイト君を3日間預かりました。

その際に友人から「無理に散歩に行かなくていいよ」と言われました。

犬を飼った経験がないA君は憧れの犬の散歩を張り切って出かけました。

しかしカイト君は全く歩こうとしません。ようやく外に出ても行きたい方向に行ってくれません。

友人の言葉を素直に受けなかったことを反省したAさん。カイト君の気持ちを考えていなかったことに気づきました。まずは信頼を得なければ友好な関係を築けないのは犬も人も同じです。

相手の気持ちを踏まえた行動をとりましょう。

 

 

 

2月に入って東京へ。東大の1次試験は駒場。2次試験は本郷であった。1次試験に備えて親父と共に下高井戸にあった親戚の家(空家)で過ごすことになった。地理に不案内な私は、親父に連れられて初めて電車を乗り継いだ。1次試験に合格したあと、今度は2次試験。今度は母親が親父と交代した。旅館は東大のすぐ近くであった。

試験があと2日という日に私は微熱(37~37.3℃)が出て、心配した母親は東大の近くの病院に私を連れて行った。レントゲンをはじめ検査をしたが全く異常はなかった。試験の前日の夜、心配した母親は仲居さんに私用に湯タンポをしてもらうように頼んでいた。ポカポカと温かかったが、母親が仲居さんにそっと小遣いを渡しているのを垣間見た。今になって親の愛情に感謝をしている。

記憶が乏しいが、3月6日頃に1次試験の発表があり3月8日に2次試験、そして3月20日頃に合格発表であったような記憶がある。

そしていよいよ母親と一緒に合格発表を見に東京に出かけたのである。

(つづく)

 

 

 

マイナンバーカードの問題には、さまざまの患者さんの声を聴く。

「保険証をなくするとはどういうことか?」

「マイナンバーとやらは地震になっても使えるのか?」

「停電になったらどうするんや?」

私の属する愛媛県保険医協会は「とにかくマイナ保険証は国民が熟知するまで時間をかけて教え、みんなが理解したところで実行してゆく。その時も現行保険証は使えるようにしておく。12月に保険証を中止、廃止することは民意に反する」と活動を続けています。総理は「国民の声を真摯に聞いて」と何回も叫んでいるが果たして国民は現行保険証の即廃止を望んでいるだろうか?

たまたま読んでいた京都協会の新聞で「マイナ問題で開業医が3人が閉院して悲しい」とあった。

今ならまだ間に合います。中止の即時撤回を求めています。

 

 

高3の1学期も終わる頃、担任のS先生と面談があった。「越智は東大医学部(理Ⅲ)を目指してがんばれ」と激励された。さて、誰もが体験する天王山の夏休み。

自宅に帰ってさあ勉強と意気込んだが、とに角、実家は今治のど真ん中。(港町)。朝から宣伝カーが例えば「今日は〇〇パチンコ。新装開店」だとか騒がしくて勉強の環境ではなかった。一計を案じた母親の案で親父の実家、今治市新谷(にや)で勉強をすることとなった。1日目の夜、とても静かで、虫の音がジージー鳴くぐらいで勉強に集中出来た。朝はセミの鳴き声で、周りは見渡す限り田んぼである。夕食後はステテコで周りの田んぼ、畑を散歩した。まさに自然の中に1人ぽっちであるが、精神的にはすごく落ち着いていた。おばさんも力がつくように美味しい食事を毎回作ってくれた。時々、母親が私のためにステーキを差し入れてくれたようである。

そして夏休みも終わり、中間テスト、期末テストもまずまずの成績で通過し、いよいよ、年も明けて、東大への受験となったのである。

(つづく)

 

 

 

TULIPアンコール公演が4月20日に松山は県民文化会館で行われた。(17:30開演)

財津和夫さんを生で観られて本当に感動の1日でした。

1971年に財津さんや姫野達也さんらのメンバー5人で結成され1972年、上京。東芝レコードより「魔法の黄色い靴」でデビュー。1973年には誰もが知っている「心の旅」がオリコン・チャート第1位を獲得し、その後、ファンなら誰もが知っている「銀の指環」「青春の影」「サボテンの花」「虹とスニーカーの頃」等、次々とヒットした。財津さんがしゃべっていましたがビートルズは世界の音楽を変えて、少しでも日本版ビートルズを目指してやってきたと。

今や76才になるがとても元気であった。2017年大腸がんになり、ファンをやきもきさせたが、すっかり治った感じがした。

姫野さんが座ったままのコンサートであったが、彼が2月の東京国際フォーラムの演奏中に勢い余って転倒し「腰を痛めて座ってのコンサートをお許し下さい」と元気な声でしゃべっていたが、姫野さんの声は本当にすばらしかった。

そして前日、城山にロープウェイで登ってそれ以上は登れないので茶店でアイスクリームを食べたと話してくれた。本当はもう少し登って、松山城を見てほしかったな、と誰もが思ったことでしょう。

前半はあまり私の知らない音楽ばかりでしたが、20分の休憩後、後半は有名な曲のオンパレードで歌によって、総立ちとなった。

財津さんが、途中のスピーチで20才台の人、30才台の人、手を挙げて!と次々と質問していたが、やはり60才、70才台の人が圧倒的に多かった。80才以上の人も数人居た。

「心の旅」では全員、総立ちで青春を思い切り懐かしんだ。いよいよラストは定番の「虹とスニーカーの頃」であった。

さて、ツアー最後のステージはやはり故郷、福岡で7月18日、19日とキョードー西日本から発表されていた。寂しいけど50余年、よくがんばりました。声援を送りたいです。

当日のセットリストを下に挙げました。御参照下さい。

第1部

1.「一人がいいさ」2.「セプテンバー」3.「風のメロディ」4.「見過ごしていた愛」5.「博多っ子純情」6.「ここはどこ」7.「もしも僕が」8.「エジプトの風」9.「走れ!ムーン号」10.「しっぽの丸い小犬」11.「逆回転」12.「街は黄昏がれに抱かれ」

第2部

13.「あの娘は魔法使い」14.「ブルー・スカイ」15.「夏色のおもいで」16.「神様に感謝しなければ」17.「虹とスニーカーの頃」18.「悲しきレイン・トレイン」19.「ぼくがつくった愛のうた~いとしのEmily~」20.「青春の影」21.「Shooting Star」

アンコール#1

22.「2222年ピクニック」23.「銀の指環」24.「私のアイドル」

アンコール#2

25.「心の旅」26.「魔法の黄色い靴」