さて中学校に無事に入った。「松山」は叔母が道後に居たので何度も来ていたから、全く知らない街ではなかった。
問題は下宿として入った「愛光寮」である。全室、2人部屋であった。規則は厳しく朝のラジオ体操が大の苦手であった。低血圧であった私は早起きは嫌でほぼ眠った状態で体を音楽に合わせてグルグル回していた。夜は5時夕食、5時半~7時と8時~10時までは勉強時間で寮監さんが厳しく部屋を回ってきた。中に、他の部屋で遊んでいる生徒を見つけては厳しく叱責していた。
今でも思い出すのは中3の時の夕食である。中1から高3まで全員が食堂で食べる食事は全て一緒であった。ある日の夕食が「素うどん」1杯であった。中3の私はそれで良いとしても高3生にはかなりきつかったのではないかと今でも思い出す。
そして何と言っても11時の消灯は完全に真っ暗になるため、9時過ぎたら歯みがき等をして就寝に備えるのである。
しかし問題は試験期間中である。とても11時には勉強が終わらず懐中電灯で勉強していた。そのため小学校の時に1.5~2.0あった視力も高1のときには眼鏡が必要になってしまった。これは今でも悲しい現実である。後に懐中電灯での勉強は「懐勉」と呼ばれるようになった。
さて、一番辛かったのは、入寮の時に母親が「がんばれよ。おなかが空いたら缶詰(桃)を食べるんよ」と言いながら去った後である。「小学校の間、ずっと毎日母ちゃんと一緒だったのに、どうして1人ぼっちになったんだろう?俺は毎日、どうやって生きていくんだろう」と、とてつもない寂しさを覚え、夜のベッドで1人涙した事は今でも忘れられない。現在のように携帯もなければ週刊誌もない昭和40年代。いくら定められた宿命とは言え、残酷な現実がそこにあった。あとは寮則に従って黙々と生きて行くだけのドライな4月であった。こうして寂しさを紛らわすために、ひたすら勉学に打ち込んだのであった。(つづく)
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①愛光学園の生徒手帳。
②中1~中3までの身分証明書。
③朝美町(現、愛光町)から愛光への通学路。遠くに城山が見える。右が松山方面、左が今治方面となる線路。
④中3のときの愛光寮全員の写真。3列目の右から2番目。寮母さんの隣が私。