前回(3月21日)に続いて高3の話である。私は自転車通学をして、その日も樋又通りを定刻に学校に向かっていた。すると突然、タイヤがパンクして運転不能になった。当日は世界史の試験の日であった。

頭がパニックになった。タクシーは通っていなかった。本当に焦った私は、道後から向かってきた自家用車に手を挙げた。運転手の男性が降りてきて「どうしましたか?」と。私は早口で「すみません。愛光学園に行く途中なんです。パンクしたので、すみませんが連れて行ってくれませんか?」と。

皆さんが運転手ならどう答えるでしょうか?幸いにも優しい方で「急いで乗りなさい」と言ってくれて私は無事に学校に到着した。道中、何を話したのか、お礼はどうしたのか、残念ながら全く記憶にない。50年経った今も、お礼をしたくてしようがない。もし、このブログを見て名乗り出てくれたら、しっかりとお礼をしたいと思っています。

「火事場の馬鹿力」なのか例えは分かりませんが強烈な想い出です。

さて、私の親父は大正生まれで、まさに戦争と向き合った世代です。今治の田舎、新谷(にや)生まれで百姓のせがれであった。時は「産めよ増やせよ」の時代で兄弟も10人以上。戦地に送るために男の子が生まれると、村長さんの音頭で村中の人が万才をしてくれたとよく話していました。そして当時、当たり前だった丁稚奉公(でっちぼうこう)で12才で単身上京。SEIKOの前身、精巧舎に就職しました。亀戸に工場があったようで、住居は東京の下町とだけ教えてくれました。そこで東京に友人が多く出来て、東京は親父の第2の故郷になりました。親父は(平成19年1月に死亡、83才)、よく私に東京の下町の話をしてくれ、やがて私の進路にも影響を及ぼしたのでした。

続きはまた次回で。