進路指導の野崎先生に呼ばれた。「越智君の成績なら理Ⅲは大丈夫だ。このまま頑張ればよい」。1月には成績優秀という表彰状までいただいて、すっかり自信をつけていた。

試験慣れのために、どこか私立大学を受けておくか?という話になって当時、一番、難しいとされた早大の理工学部を受けることになった。この話は誰にも話したことはなかったが、早大の構内に入ったのはこれが最初で最後である。英、数、理を受け帰りには代々木ゼミナールの人が解答を配ってくれた。マークシートだったので自己採点も早く、ほぼ満点であった。「特待生で早大に来てくれ」と封書が届いたが、私はとに角、理Ⅲを目指さねばならなかった。

さて昭和57年までは国立大は一期校と二期校があり(共通一次の前の時代)、今度は一浪の身であるので一期は東大、二期は東医歯大で願書を出した。

そしていよいよ東大受験の日。すいすいと進んで物理の問題。3問しかないんだな、と何度も確かめて回りを見渡す余裕があったが、あと10分くらいの所で「何かおかしい」と裏面を見ると裏にも問題があったのである。必死で解いたが、もう間に合わなかった。他の教科もがんばったが、発表の日は予想通り落ちていた。

絶望である。仕方がない。二期校の東医歯大の試験に臨んだ。倍率は50倍を越えていた。東大、京大、阪大等落ちた人がみんな来るので、すごい倍率になるのである。試験会場もないので代々木ゼミナールで受けた。1クラスは50人ぐらいの収容なので合格の自信は全くなかったが何とか終えて、その後、2浪のために駿台の受付を済ませて今治に帰った。親父が「あと1年、がんばって働かないかんな」とつぶやいた言葉を今でも忘れられない。

(つづく)