母校、医歯大の教養部のある国府台(こうのだい)は歴史的にも古代史に出てくる有名な所である。(詳細は省略)。近くには江戸川が流れ(矢切の渡し)、広い芝生のあるグラウンドで、我々は「国府台牧場」とネーミングしていた。ある教授が一生懸命、ゴルフの素振りやピッチングの練習をしていたのをはっきり覚えている。50年近くも前だから世相ものんびりしたものである。

本部のお茶の水は、東京のどまんなかで便利ではあるが、自然に囲まれたとはとても言い難かった。

さて、本題の友人達である。医歯大は1学年80人の定員で頭文字をアイウエオ順で3分割しA、B、C組に医科も歯科も分かれていた。

私の「オ」は当然、A組でアからキまでの姓の友人達となった。A組は今でも団結が深い。4月、5月はみんな現役以外は東大や京大を落ちた人ばかりで、みんな悔しさのあまり「来年も理Ⅲを再受験する」と息巻く連中が多かった。ある意味、合格の喜びは半分であった。

ある時にA君と友人になり受験の話となった。A君は3浪だが、2浪目は絶対的な自信をもって駿台から臨んでいた。ところが彼には「花粉症」というやっかいな持病があった。(私もであるが)。背水の陣を敷くために朝一番でアレルギー予防薬を服用して家を出た。(試験中にタラタラと鼻水が出ないように。)この薬は当時はポピュラーな「ダンリッチ」であった。ところがダンリッチはよく効く反面、眠気が強いという欠点もあった。A君は1日目の1時限目の試験を解くうちに猛烈な眠気に襲われて何と寝てしまったのである。「はい、やめて」の試験管の大声で目が覚めたが時すでに遅し。かくして3浪が決定したのである。

次にK1君は、数学は天才的だったそうだが、理Ⅲの国語でつまづいて医歯大に入った。4月は一生懸命、翌年の受験に備えて勉学に励んでいた。

こんな訳だからモチベーションのあがらない、4~5月であったが、やがて教養部の「ドイツ語」の授業等にみんな没頭するようになって夏頃には、みんな医歯大の教養部生活を楽しむようになった。

そうしているうちに、私は開成高卒のK2君と大変親しくなった。彼が本屋の息子で旅行の時刻表等もいつでも見れる環境にあったため、時刻表を組み合わせ、私とK2君、さっきの3浪のA君、更にもう1人のK3君と4人組が完成し、春、夏の長期休暇の度に全国を旅行したのも青春の楽しい想い出である。(今のようにパソコンもネットもない時代に列車の時刻表を組み合わせていくK2君はさすが開成卒だと今でも尊敬している。)

回想して強烈に残っているのは函館山からの夜景、小海線から見た八ヶ岳、島根県の出雲大社である。

さて最近の話ですが、浪人の末、某医学部に合格した知人の息子N君に、「とに角、学生の間に旅行をして、そして麻雀も覚えておけ」と偉そうな事を言ったのも、青春の想い出からの懐かしさからである。

(青春篇は今回でおわり)。